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2012年1月14日 (土)

1月ー1

新しい年を迎えました。

干支は、壬辰 みずのえたつ。

安岡正篤先生によれば、「壬」は、「妊む」に通じ、動意を孕む、物事が動き出すという意味があり、また、そのような時にあたって責任ある立場の人がその「任」を果たすべき時であるとされます。

また「辰」は、震、振、蜃に現されるように、これまで固く殻を閉じていた貝が陽気に触れて殻を開けて活動を始める意、良い意味でも悪い意味でも世の中が震動するということでもあるようです。

昨年、辛卯の年の辛は、「上」と「干」と「一」の組み合わせで下なる陽エネルギーが敢然として上に出現する形とされ、まさに関東東北大地震、津波、原発事故が起こった年となりました。

1755年11月1日のリスボン大地震津波は、大航海時代に覇権を競ったポルトガル凋落のきっかけとなり、その後ポルトガルは再復興を果たし得ず250年にわたって経済、政治の低迷を来し、ついに往時の栄光を取り戻すに至っておりません。

われわれはその轍を踏むことなく、今年こそ、リーダーが十分にその「任」を果たし、全員が「振るい」立って、動き出した物事を良い方向に導いていくよう努力していきたいものでございます。

   陋屋から望む新春の富士

   004

   赤児なる 孫笑む写真眺めつつ 
                 新しき年ひとり言祝ぐ

2011年12月30日 (金)

12月ー2

12月後半の瓏山です。

○坂の上の雲

NHKのドラマとしては見ごたえがあるものだったように思います。

日本海海戦の旗艦三笠は、その後記念艦として横須賀に繋留されていましたが、第2次大戦後、艦橋、砲など上部構造をすべて撤去され、ダンスホールなど米駐留軍の慰安施設として使われていました。
昭和30年イギリス人のジョン・ルービン氏がその現状を記事にしたことによって復元の機運が高まり、関係者、米軍ニミッツ元帥の尽力もあって昭和36年岸壁上に復元されています。

この三笠の復元に際し、第2次大戦で戦死した子息を持つ小泉信三博士は、次のように述べておられます。

「そもそも自尊自重の精神の無い国民が他国人の侮りを受けますのは、これは当然であります。
(中略)
兵は凶器であって戦争はもっとも憎まなければならぬものであります。しかしながら、現に人類が地球上に国を立て、自国と他国を分かって相対する事が行われる限り、自国の独立の危うきに臨んで、その防衛のために心身の限り、否、心身そのものを尽くすことは国民最高の責務であります。」

明治維新からわずか80年ほどの間に、日清、日露、第2次大戦と3度の戦争を体験した日本は、その後70年ほどにわたって平和を享受しております。

来年以降も、日本だけでなく、世界が平和であるように望みたいものです。
そのためには、小泉博士が言われるように、他国に侮りを受けないよう、一旦ことあれば立つという「自尊自重の精神」を持つことが、リーダーにも国民にも求められるということでもございましょう
(「えらい大演説やね」「まあ老いの一徹ということで」)。

○2011年瓏山10どうでもいい事件

2月 愛用の尺八が割れ、平成の大修理を行う

3月 東北関東大地震による計画停電で第2次大戦以来の蝋燭の下1人での夕食、しばらくの間米が買えず餅を雑煮にして食う

5月 遼東半島に出かける、旅順激戦地鎮魂慰霊の旅

6月 NHK和歌に応募作佳作入選

7月 福生七夕祭りパレードに参加、浴衣に団扇でメインストリートを踊り歩く

8月 一門の浴衣会で「白雲の城」を踊る

10月 ミュンヘンのオクトーバーフェストでビールを飲み、 フィレンツエの居酒 屋でワインを飲み、バチカン・サンピエトロ大聖堂でミサに与る
(「ミサとお酒をごっちゃにしたらあかんよ」)

11月 3人目の孫出生
(「孫を可愛がる動物って人間の他に居るのかね」 志賀直哉)

11月 結城 依田 武宮の諸先生にあやかりついに髪の毛を一分刈りとし、来年の 完全丸刈りを目指す 

12月 水泳クロールで25M完泳目前

世の中では、3.11大震災の復興未だ進まず、欧州発の経済危機未だ収まらずという情勢の中で暢気なものでございますな。

   はかなしとまさしく見つる夢の世を
                     おどろかで寝(ぬ)る我は人かは 
                                   (和泉式部)

そのなかで7.17なでしこジャパン女子ワールドカップ優勝は国民全員の欣快事でありました。
ただ、集団として初めて彼女らに国民栄誉賞が与えられるというのであれば、東北大災害という未曾有の国難にあたり、昼夜を忘れ、家族を忘れて、まさに「心身の限り」、復旧に力を尽くした自衛隊員、海上保安庁、警察、消防隊、地方自治体の職員、原発現場の東電社員、関連会社社員など無名の方々にも、等しくその栄誉が与えられてしかるべきだと思うのは私だけなのでしょうか。

        

2011年12月14日 (水)

12月ー1

12月前半の瓏山です。

○水泳

なぜか急にクロールに習熟しようと思い立ち、近くのプールに通っているのですが、当初、手の使い方、足の使い方、息の継ぎ方すべてばらばらだったのが,コーチの指導でここのところ漸く少しバランスがとれてきました。

特に、ゆっくりしたストロークで慌てずにたっぶり息をとるというのが、言うは易くして難しいのです。
呼吸に集中すれば、手足の動きがおろそかになり、手足に注意すれば息が十分取れないということで、上級スイマーのおばさん達(平日朝のプールは鰹のように流線型のご婦人がたで一杯、水泳でスリムになるというのは妄説だと思う)が脇をすいすい泳ぐ中で、74歳の鰯のような老人、毎日ひーひー言いながら取り組んでおります。

要はリラックスが大事ということなのですが、水の中に入るとどうしても緊張してしまい、体の余分なところに力が入るのが素人の悲しさでございます。

面白いのは、プール通いを始めてから、尺八のほうに変化が見られるようになったことです。

一般に、管楽器の演奏にあたっては、いかに十分に息をとるかということが、大変重要なポイントになるのですが、かりに息を十分とることに失敗してもなんとか次のフレーズぐらいを吹くことはできます。
これが曲者で、一度いい加減な息の取り方をするとその後の息の取り方もどんどん不十分になってきて演奏と言えない状態になってしまうのです。
しかし泳いでる場合は、間合いよく息をとっていかなければ、もともと泳ぎ続けること自体が出来ないので、しっかりと息をとる癖が身に付くような気がします。

それと吐ききってしまわなければ息は十分に吸えないということも実感として分かりました。

斯道の先輩には、そんなことが今更分かったのかと言われそうなのですが、人に上手いと思われたい、さりげなく息をとりたいなどと実力不相応の邪心を抱くと、息が足りなくなり体に力が入っていい音は出ず、バランスも崩れるんだということに改めて気付かされている、年寄りにプールの冷や水の瓏山でございます。

それと長唄の踊りでは、片足を揚げて扇を前とか横に出し、わざと前のめりになるというような所作が多いのですが、水泳でのバランス保持の訓練はこれにも役立ちそうなのですよね。

それにしても、人間は、おぎゃーと息を吐きながらこの世に生まれ、最後にはすっと息を引き取って死ぬということのようでありますが、世界のどこかで生まれた赤ちゃんが吐きだした息を吸って、世界のどこかの老人が生を終わるというのも、呼吸の不思議さではございます。

○いわき復活祭in tokyo

中野サンプラザで開催されたいわき復活祭に行ってきました。
会場前の広場には、いわきの産物を販売するブースが立ち並び、どこも行列が出来る盛況です。
当方も焼きたてのめひかりをさかなに、「南部美人」で一杯。

劇場では、旅館の女将さんたち「湯の華連」による、鎮魂の「じゃんから念仏踊り」、常磐ハワイアンズのフラガールたちが本拠地が震災で営業不能になるなか、それぞれの震災の痛手から立ち直り各地を公演してまわる日常を記録した映画「がんばっぺフラガール」の上映、そしてメインイベントでは34名の踊り手総出演のポリネシアンショウが上演されました。

映画とショウを通じて、被災者でもある若いフラガール達が、自分たちに突如振りかかった災害を冷静に受け止めてそこから立ち上がろうとする芯の強さを感じさせられました。これは、彼女たちの親、親族など、東北被災地のかたがた全員にに共通するものなのではないでしょうか。

これまで常磐ハワイアンというのは、失礼ながら炭鉱が閉鎖された後の客寄せのためのお座敷ショウ程度のものとしか思っていなかったのですが、東京の大劇場のステージ一杯に1時間余りにわたり繰り広げられたフラダンスは本場に見劣りしない垢ぬけたものでしたし、34名と言う大人数による一糸乱れぬマスゲームのようなショウは、繊細で色遣い豊富な日本の特徴も出ており、完成度の高い日本流フラダンスを見せてもらったような気がします。
東北出身のかたも多かったであろう満員の客席も大いに盛り上がっておりました。

被災地東北の心意気を東京の人間に感じさせた一夜でございました。

2011年11月28日 (月)

11月ー2

11月後半の瓏山です。

○坂の上の雲

12月からTVドラマ「坂の上の雲」の完結編が始まるのを前にこれまでの総集編が放映され、半年前に訪れた、今はのどかな金州街道から旅順に至る風景、203高地から望んだ旅順港の様子などTVの画面に重ねて思い出しております。

この11月26日は107年前の旅順攻囲戦で、血路を開かんと旅団長の中村少将自ら率いる3千名の白襷抜刀隊が旅順要塞に決死の突撃を敢行し、少将以下殆ど全員が戦死した日でもありました。

戦争というものの評価はどうであれ、先人が命を賭して、今我々が安穏に住む日本を築き上げてくれたんだという事実は、やはり忘れてはならないのだと思います。

あの時、明治の人々が、
「恒久の平和を念願し、”平和を愛する諸国民”の”公正と信義”に”信頼”してわれらの安全と生存を保持しようと決意し」、自ら闘う意志を放棄していたとしたら、少なくとも今の形での日本は存在しなかったのでしょうから。

(そして現在の我々も、拉致問題、尖閣諸島問題など、果たしてその”公正と信義”に信頼をおけるのかどうか、平和を愛しておられるのかどうか疑問な国々に取り巻かれております)。

○今月の人物

ブータン、ワンチュク国王夫妻
 庶民とも親しく挨拶を交わしながらも自ずからにじみ出る気品。
威あって猛からず。 やはり 生まれながらの王様なのですよね。
 夫妻の和服姿での挙措振舞もなまじっかな日本人より日本人らしさを感じさせられました。
 宮中の招宴では、主賓はお国の正装、迎える当方は日本であっても西洋衣装。宮中は慣例おありだとすれば、せめて総理大臣ぐらいは、賓客に合わせ日本伝統の和服正装で出席してほしかったと思う老人でございます。

秋山ホークス監督
 日本一になった試合直後のインタビューで、アナウンサーの試合に関する問いかけを途中で遮り、東北災害について、「被災者に元気になってもらおうと闘ってきた。いい試合ができて喜んでもらえたと思う」という趣旨のことを言っていましたが、あの興奮状態のなかで勝利に舞い上がることなく、監督としてまた野球人としての立場から、あの場で大事なメッセージをきちんと伝えることが出来るというのは大したものだと思いました。
 プロ野球界にもまだまだ人は居るようです。

立川談志師匠
 あそこまで世間を騒がせた破天荒な風雲児が、死去に際しては世間はおろか弟子にも報せず ひっそりと骨に。
 ”こちとら江戸っ子だい、どうでえ粋なもんだろう”
と言ってる顔が目に浮かぶようでございます。
それにしても、NHKのニュースで、戒名の「雲黒斎」を、「うん・こく・さい」とわざわざ区切って読み上げた女性アナウンサーの苦心の工夫が面白かったですね
(ただ、しとやかなアナウンサーが真面目な顔で不自然な読み方をすればするほど故人がたくらんだおかしさが伝わってきて、師匠はしてやったりとばかりにあの世でひとり悦に入っているのではないでしょうか)。

天下の鬼才に合掌。

○独居老人調理心得5カ条

1.調味料は、塩、胡椒、醤油、酢、砂糖、エクストラバージンオリーブオイル、出汁の素、   スープの素だけとする
 (ラー油、ごま油、豆板醤、オイスターソース、ナンプラー、バルサミコソース、ナツメグ、月桂樹の葉などなど料理研究家諸氏の口車に乗せられて一度しか使わない調味料を買い込まない)

2.すべていい加減を旨とし、材料、調味料の分量、加熱加減などレシピの細かい指示は無視する
(分量や時間など多少間違えてもどっちみち味に大差ない)

3.生ゴミが出る調理は基本的にしない

4.煮る炊く焼くなど調理は極力電子レンジを使う(調理器具は進化している)

5.おかずの皿数は3枚とし、一皿ずつ食し食事中でも食べ終わった都度洗う

ところで、過日、NHKの番組で紹介された、広島のメーカーが開発した水圧で米を研ぐ器具。
容器に米を入れ水道の蛇口につないで栓を回すだけで、高圧の水が容器の中の米を高速で掻き回し、20秒程度で綺麗に研ぎあがるというすぐれもので、無洗米など使いたくないという頑固な老人にとっては大変重宝、近来まれな発明品と思います。
これからの時期、手がしびれて冷たい思いをしたくないご老人の方々、一度お試しになっては如何かと。

○孫

札幌で3人目の孫が誕生しました。
家内が生存していれば古希を迎える誕生日の前日だったので、なにか不思議な気がします。

  孫産まる 告げ報せれば 亡き妻の 
                    写真のかんばせほころびてみゆ

  新しく世に出し命に名は付きぬ
                 彼の行く手の真幸(まさき)くもあれ   

 

2011年11月14日 (月)

11月ー1

11月前半の瓏山です。

ここ福生に住み着いて3年余りが経過しました。
この「福生」、あらためて字面を眺めればなかなか縁起がいい地名ではございませんか。

市の資料室によれば、戦国時代に福生郷の名前が既にあったということですが、地名の由来は定かではなく、北方の敵を「防ぐ」-「塞ぐ」場所であったところから福生という字を宛てたのではないかとする説もあるようです。

とすれば、日米の防衛拠点である横田基地が福生にあるという現代にも符合するということなのでしょうか
(FUSSAの中ににUSAがあるということでもあるし)。

東京都にある福生市ではありますが、下手をすると東京の人間でも「ふっさ」と読めない人がいます。
地方の産物を通信販売で送ってもらおうと電話で住所を言うと、まず何回か聞き返されます。
「幸福の福に生命の生と書くんです」などと言うのですが、今度は、文字は分かっても「ふっさ」と言う読み方が先方に通じないのです。

当方の老化が進んで、とうとう発音不明瞭になったかと自信を失いかけるのですが、実は福生というのは北海道の標茶とか九州の雑餉隈などとならんで難読地名の一つなのですよね。

秋も深まり冠雪した富士山がくっきりと望める日が多くなりました。

   秩父から転がり落ちる木枯らしに 
                多摩のあらざけ身に沁みわたる
                  

そのような福生の我が田に水を引きますと、

○富士を中心に西方一帯に180度広がる相模、甲斐、秩父の山々の四季を通じて移り変わる世に知られざる景観

○市内に点在する古代からの雑木林ー緑が多い

○多摩川と玉川上水の清流

(山紫水明の地であります)

○知る人ぞ知る地酒の田村酒造と石川酒造

○横田基地で毎日吹奏される日米両国歌

○中央道、圏央道にすぐ乗れるので、山梨、長野、埼玉、群馬方面に気軽に出かけられる

などなど、

 要は田舎と言うことなのではございますがsmile

○陋屋は、

1階にクリニックが併設されているので、病院まで出かけなくても、いつでも気軽にホームドクターに薬を貰らったり話が出来る

1,2階にはケアセンターがあり、介護従事者も多いので、一人者でも話し相手に不自由せず、将来ケアされる側になった時の心の備えも出来るし、ときどき余興などボランティア活動にも参加出来る

内風呂はあるが、時に棟内の大浴場で温泉気分で頭に手拭などのせながら、仲間の独居老人同士四方山話が出来る

バリアフリー、車いす対応の廊下・居室、24時間の緊急対応態勢などハード・ソフト面が整備されているので、要介護状態になってもそのまま生活出来る
(でも出来得れば、いつまでも介護保険の払い手側でありたいsun

などなど、

 要は老人の吹き溜りと言う事なのではございますがsmile

呵呵

2011年10月31日 (月)

10月ー2

10月後半の瓏山です。

先日は、ついこの間滞在していたローマ、コロッセオ周辺で騒擾、EUの財政再建問題などどこ吹く風とよくもあの辺を気楽に遊び廻っていたものです。
去年、これまたのんびり楽しんだバンコク、チャオプラヤ河畔のマンダリンオリエンタル、川沿いオープンデッキのテラスレストランも浸水で大変な様子、能天気な老人をおきざりにこのところ世の中は急速に変化しつつあるようです。

母が他界してこの10月で2年が過ぎました。
私が自立し、母も晩年を迎えてからのいわば対等の大人同士の会話よりも、母が20,30歳代で私が少年の頃の二人の間のやり取りのほうが、いまや何故か濃密に思い出されるというのは、当方も年をとって精神的に幼いころの自分に戻りつつあるということなのでしょうか。

生きていたら喜んでくれたろうなというようなことが、幸い最近多いのですが、これからも、そのようなことが続くよう見守ってほしいものです。

秋も深まり、羽根布団を取り出しきて永年馴染んできた布団カバーを取り換えることにしました。
こうして、家内と暮らしていた頃の生活風景が徐々に身の回りから姿を消していくのも致し方ないことなんだとおのれに言い聞かせる秋の暮でございます。

ところでこのところ、食事を終ってから有難うございましたと言いながら食器を洗えるようになりました。
食物に対する感謝とそれを美味しいと思って食べられる自分で今日もいられたということに対しての感謝です。
人間、年をとると殊勝な心根になるものですね。

それにしても毎日言っているいるこの言葉、一度ぐらい家内にかけられなかったものでしょうかね。

”You don't know what you got, until you lose it”と歌うジョンレノンのヒット曲がありますが、世の中のことは、愚昧な老人にはすべて過ぎ去ってから分かるということばかりです。

これには、”Oh baby baby gimme one more chance"と続くのでございますが・・・。

2011年10月15日 (土)

10月ー1

10月前半の瓏山です。

先月30日に陋屋をよろばい出まして、ミュンヘン、フィレンツエ、ローマを廻り、10日に帰ってきたのですが、流石に寄る年波には勝てずといったところでしょうか、ビールとワインの二日酔いでこの2,3日、ぐったりとしておりました。

自由な行動を束縛されるのがいやなので、今回も、ホテル、交通機関すべて自分で手配しての独り歩きだったのですが、老人度日増しに加わり、緊張感を常に保持する事が難しくなってきていることを考えると、そろそろこのやりかたにも白旗を掲げる時期になったかなとも思わされた今回の旅でもございました(11日間というのも矢張り一寸長かったような)。

それにしても、異なる文化を持つ国々で、直接かの国の人々と触れ合うというのは、何時も、萎びた老人の頭に新鮮な刺激を与えてくれます。

国外に出た途端、国内では特に気にする事もない、あるいは却って邪魔になる、アイコンタクト、身振り手振り、表情、言葉の全てが旅を続けるために重要になるのですよね。

そのうえで、冷たくされても言葉が通じないんだと思えば落ち込まずに済み、温かく扱われれば率直に嬉しいという感情を素直に表明できるということで、引っ込み思案の1人子としては、ある意味性格改善の機会にもなるのでございます(「もう遅いよ」)。

今回の旅でもいろいろな触れ合いがありましたが、これまでと違っていたのは、私が日本人と分かると誰もが異口同音に、3.11の東北大地震と「ツナミ」を話題にしたことでした(ちなみに「ツナミ」は英語だけでなく、エスペラント語のようにいまや万国共通語になっております)。

ミュンヘンの喧騒を極めるオクトーバービアフェストのテントの中ぎゅうぎゅう詰めの長椅子で隣り合わせになりお互いに1Lジョッキの乾杯を繰り返した地元のカップル、
フィレンツエの混み合ったトラットリーアで隣同士のテーブルになったフランス・オルレアンから来たおばあさんとデュッセルドルフに住むというその姪御さん(双方ともかっては相当の美人であったろうおしゃれなうば桜)、
フィレンツエからローマに向かうAVで乗り合わせたスペインとアメリカから来たローマ大学留学の男女学生、
ローマのホテルのロビーで知り合ったアラバマのロータリアンの一家などなど。

その後放射能がどうなっているかということもあったと思いますが、まずは「お前は大丈夫だったのか」、「おまえの国も大変だったけど頑張ってるな」という思いやりの言葉と、「私たちも募金したよ」というのが多かったのには心温まる思いがしました。

勿論、不肖瓏山も及ばずながらわが日本国を代表いたしまして感謝の言葉を述べるとともに、放射能騒ぎも落ち着きつつあるので、欧州もいいけれど美しい私の国にも是非遊びに来るよう観光局長官に代わり要請したところでございます。

アジア系老人欧州独り歩き雑感

○ミュンヘン

なんと言っても今回の目玉はオクトーバービアフェスト。1年に1回、ドイツ国内は勿論ヨーロッパなどから600万人が集まり、600万Lを超えるビールが飲みつくされるというバイエルン地方最大のお祭りです。

今年は、9月17日から10月3日まで例年の如くミュンヘンのテレージェン・ヴィーゼ公園で開催されておりました。

私が訪れたのは丁度その最終段階だったので、ダウンタウンから会場に向かう道は終日人で溢れ、行きかう若者たちが声をかけあうなど街の盛り上がりも最高潮でした。

会場の公園にはテントと呼ばれる1000人近くも収容できる仮設のレストラン(許された地元のビール会社だけが設営できる)が広い道の両側に14,5軒ほども立ち並んでいます。
思い思いのバイエルン、チロルの民族衣装に身を飾った男女、子ども連れの夫婦が陽気に行き交っています。
その中を目が細く鼻が丸く脚の短い東洋人が、近くに不審な人間はいないかなどと財布の所在を確かめつつ、きょろきょろと周囲を見回しながら一人歩いているのです。

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どのテントも満員で、老若男女それぞれ1L入りのジョッキを呷りながら、肩を組んで歌うものあり、それに合わせて椅子の上に立ちあがって踊るものありの賑やかさ。

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ルフトハンザのアテンダントに教えてもらった一番人気のテントには1日目にはついに潜り込めませんでした(翌朝10時の開園に合わせてしつこく再度挑戦、ようやく初志を貫徹し朝から1Lジョッキを3杯お代わりして喝采を受けました)。

ドイツ人は綺麗好きと言われますが、会場内や周囲の道路は、ソーセージを包んでいた紙などが散乱しています。市内のマリエン広場の噴水の周囲なども結構ごみが散らかっていました。
もっとも、早朝街のいたるところに撒水車が出て強力に放水してすっかり綺麗にしてしまうところがドイツ人のドイツ人たるところでしょうか。

ドイツの他の都市もそうであるように、ミュンヘンの街も第2次大戦の連合軍による空爆で8割方破壊されたということですが、いまやその痕跡もとどめず、歴史を思わせる石造りの町並みが再建され整然と続いているのには流石と思わされました。

○フィレンツエ

後でややがさつなローマに行ってみて、フィレンツエこそがイタリアの粋を感じさせてくれるところだと思いました(と大きなことをいってもあとはミラノしか知らないのですが)。

美術館、博物館はもちろんながら、教会も建物も店も街路も(飲み屋も)ルネッサンスの雰囲気を感じさせてくれます。

ミュンヘンでは見かけなかった乞食もいました。ユーロ圏内の格差の表れでしょうか。
ドウオーモのサンタマリアデルフィオーレ教会、サンタマリアノベッラ教会の入り口にも門番のように乞食がいまして、これが通り雨がくるとさっさと合羽(結構粋な色合いの)を被っていたのがおかしかったですね。
スペインのサンチャゴデコンポステーラ大聖堂の入口の乞食は交代制で非番の乞食が脇で昼飯など喰っておりましたが、あちらの乞食は人を喰ったところもあるようでございます。

酒が安いのは感動的ですらあります。1人なので高級レストランには行かず(フルコースは食べきれずまた懐のせいもあり)、ホテルのコンシェルジェに勧めてもらったトラットリアに毎晩場所を変えて出向いていたのですが、そこそこのワインを開けても、支出はまず日本の3.4割程度、しかもこれが本場のトスカナワインなのですから堪えられません。
われわれ日本の酒飲みは酒税当局に虐待されております。

一人旅につきもののハプニングというか失敗は今回もいろいろありましたが、フィレンツエからローマに向かう特急列車AVには、あやうく乗り損なうところでした。

駅の発券窓口が混雑するので、用心のため、あらかじめ旅行代理店でローマ行きの指定券を買い、早めにサンタマリアノヴェッラ中央駅に出向いて、電光掲示板の発着案内に目を凝らしていたのですが、発車時間も迫ってくるのにベネチアから廻ってくる私の乗る列車の表示が一向に出てきません。
これがかねて聞き及んでいたイタリアのいい加減さではなかろうかなどと思いながらもさすがに焦り始め、スーツケースを引き摺って駅構内をうろうろした揚句、漸く列車はローマが終点でなくローマ経由サレルノ行きなんだということに気が着き無事乗りこむことができました(なんのことはない、列車番号はきちんと表示されていたのに)。

イタリアの鉄道には、この後、テルミニ駅から空港までのレオナルドエクスプレスにも乗りましたが、いずれも発車時刻、到着時刻とも定刻でした(いい加減だなどと言ってごめんなさい)。

チケットにローマテルミニ行きとあり、映画の影響もあってすべて列車はローマが終着駅と早とちりしていたのも老人血圧上昇の一因でございました
(それにしてもジェニファジョーンズのような女性にめぐり合うロマンチックなローマは体験できなかったですな)。

駅では、「何番線にどこそこ行きの列車が到着します」とか「危ないですから黄色の線まで下がってください」とかのアナウンスなどはなく、発車のベルもありません。
列車はなんとなく入ってきてなんとなく出ていきます。
乗客は全くの自己責任で黙々と乗り降りしております。
それでも、なかに大きな荷物を持った年寄りなどがいると必ず誰かが近寄って手を貸しております。

そう言えば、TVの天気予報はドイツでもイタリーでも、地域の情報とともにヨーロッパ全域の状況を解説していますが、熱中症に注意とか、紫外線がどうだとか、やれ冷えるから重ね着をしろだとか、雨が降るから傘を持って出かけなさいとかいう子供にするような注意はしてくれないのですよね。

○ローマ

この街はどこを歩いても古代の遺跡、それも巨大な建造物がそこここにごろごろ転がっているような街ですね。
広い道路も中央部分を除き昔ながらの石畳が残されており、街中いたるところににある教会も、樹木に囲まれた日本の神社仏閣と異なり、石畳の前庭、石造りの回廊、伽藍でして、有機物を拒否する石の文化がそこにあるといった印象を受けました。

往時、エジプトから戦利品として持ち帰った大小のオベリスクも市内のあちこちに見ることができます。
バチカンのサンピエトロ広場にもローマ皇帝が移設したひときわ巨大なオベリスクが建っているのですが、聖堂の円形のクーポラ、聖堂内の楕円形の伽藍、広場を円形に取り巻く回廊に対し、鋭角に聳えるオベリスクがなにかそぐわない感じを受けたのは、老人の目に、カトリックが「略奪」を許容しているかのようにに見えたからでしょうか。

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街中に結構スクーターが多いのは、「ローマの休日」を思い起こさせます。

地下鉄に乗ると、どこからか音が流れてくるので何かと思えば、車内でバイオリンを弾いている少年がおり、一区切りつくと紙コップを持って寄付をもらいに乗客の間を廻るのです。レッスン料の足しにでもするのでしょうか。アコーデオンのおじさんの時もあります。

改札口を出てスペイン広場などへ出る地下道にも、一応ちゃんとした身なりの夫婦が子供を抱いて紙コップを前にギターを演奏したりしています。これもイタリア的というのでしょうか。

サンピエトロ大聖堂に観光客として訪れた翌日、一応信徒のはしくれとしてご本山のミサに与ろうということで、夕方4時過ぎに再訪いたしましたところ、思いがけず、ベルトーネ枢機卿(枢機卿の中でも法王の次の最高位らしい)以下3人の枢機卿が司式するお二方の司教の叙階式に巡り合わせました。
Photo   

儀式に参加した聖職者の数だけでも80人は超えるであろうという壮大なもので、あの大伽藍にパイプオルガンの壮麗な音色とグレゴリアン聖歌が響き渡り荘厳きわまりない儀式が2時間を超えて続きました。

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主祭壇から遥か後方柵に隔てられたところからではありましたが一応まがりなりにも参列出来たのは、たまたまバチカンを訪れた老生としては望外のことでありました。
これも日頃の心がけが良かったからでしょうか。

これで、一昨年のサンチャゴデコンポステーラとあわせ2大聖地を訪れたことになります。
今後何時の日かエルサレムに行けることはあるでしょうか。

今回廻った各地では、交通機関や観光バスでの案内用語は、地元の言葉の他は、英語、スペイン語、フランス語で、中国語、日本語などは使用されていませんでしたし、観光地での入口、出口などの標識も外国語の表示があったとしても英語、スペイン語でした。

そのようななかで唯一、世界中の人が集まる天下のサンピエトロ大聖堂の標識に日本語を見つけたんですよね。
聖堂の出口の上には、イタリー語、英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語とともに、「出口」という漢字の表示があったのであります(感激のあまり手が震えていますcoldsweats01)。

欧州のカトリック諸国は見習ってほしい。

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でも、これは混迷停滞の中で文字通り「出口」を見失っている日本に、入口だけでなく出口の大切さを教えてくれているのかも。

○アルプス山脈

帰路、ローマ、レオナルドダヴィンチ(フイウミチーノ)空港を飛び立った飛行機は、スイスからオーストリアにかけて連なるアルプス山脈の上を横切って、ミュンヘン、フランツヨゼフシュトラウス空港に向かいます(日本の空港にも竜馬空港というのはあるにはあるんやけどthink)。

どれがどの山かは分からねど、これがほんまもんのアルプスなんやなと思いながら、赤ゲットのアジア人は、どこまでも続く雪に覆われた峨峨たる山容に機上から目を凝らしておりました。

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2011年9月28日 (水)

9月ー2

9月後半の瓏山です。

○21日山梨からここ西多摩を掠め埼玉を通過して行った15号台風、久しぶりに関東を直撃しましたね。
隣の八王子でも瞬間最大風速43.1Mだったということで、特に夕方の強風はすさまじく、陋屋から見下ろす駐車場の周りの木々はなぎ倒され、車が今にも飛ばされはしないかとひやひやさせられました。

台風一過、秋の気配が濃くなりました。
平安の頃、藤原敏行さんがおどろいた風の音は台風のような無粋なものではなかったのでしょうけれど。

毎朝6時過ぎからイヤフォンでラジオ講座を聴きながら散歩しているのですが、散歩経路である翌朝の福生公園も惨憺たる有様で、あちこちに折れた大小の木枝が散乱し、なかでもひときわ高く生い茂っていたふた抱えほどもあるブナの巨木がぽっきりと折れて横たわっていたのには驚きました。

おかげでこれまでこの巨木の茂みに隠れて見えなかった1キロあまり先多摩川沿いにある観測塔が陋屋からはっきり見えるようにはなったのですが。

○この月末から来月上旬にかけて、ミュンヘン、フィレンツエ、ローマを廻って来ます。

実は、この期間、以前から豪州行きを計画していて日程の都合がつかなくなり出かけるのをあきらめておりましたところ、9月になって突如予定していた行事が無くなったものですから、去年計画していて急に眼が不自由になり中止したイタリーに、年寄りの気まぐれで行ってみることにしたのです。

交通機関、ホテルなどすべて自分で手配しての老人の一人旅なので、さてどんな道中になりますことやら。
この日あるを期して、一昨年10月から聴き続けてきたラジオのイタリア語講座、果たして実戦で物の役にたつでしょうか(「あなたの場合、お酒と料理の注文が出来さえすればいいんやもんね」)。

ただ、これもまた生噛りのスペイン語とイタリア語の単語が、萎びた脳の中で生煮えのパエジャのように入り混じってしまうのが困ったものです。
同じ語源なのでこれがある程度似ているというのが、半可通の私奴にとって却って始末に悪いのでございます。

3都市に絞って少しゆっくりして(と言っても、それ以上は手配が面倒というだけのことなのですが)、トスカナの空の下で大いにかの地のワインを堪能してこようと思っています(それにちょっとルネッサンスの香りも)。

ミュンヘンでは、丁度オクトーバーフェストの最終段階なので、ビール大国のドイツがどんな雰囲気になっているか体験するのが楽しみです。伝統衣装の若い娘さんたちと腕を組み祭り専用のジョッキでおだをあげたいものです(ヨーロッパの深刻な経済情勢が我が国に及ぼす影響など我関せず、ただユーロが安ければよいという太平楽な老人でございます)。

そのようなわけで、来月10日過ぎまで電話には出れません。メールもホテルのPCが日本語環境にないでしょうから多分ROMになりますので、あの野郎ついにぶっ倒れたのではないかなどとのご心配なきよう願い上げます。

2011年9月14日 (水)

9月ー1

9月前半の瓏山です。

○この12日は「中秋の名月」、残暑厳しいと言っても、ここ東京郊外多摩川べりに夏の蒙気は去りつつあるようで、久しぶりに横田基地の上にかかる皓皓たる月を愛でました。

夏の間おぼろに霞んでいた富士山も、漸く「秋来むと眼に」も「さやかに」見えてきたといったところです。

南は丹沢山塊から北に秩父の山々を望む方丈まがいの陋屋の壁に琴、琵琶ならぬ一管の尺八を立てかけ,不遜にもかの鴨長明を気取って浅酌独吟の瓏山でございます。

○和歌に親しもうとしているうち、どうも肝心の国語、それも文法が怪しくなっていることに気がつきました。

考えてみれば、外国語の文法のほうは、なにやら接続法とか複合過去、やれ過去未来時制だとか結構気にしているくせに、肝心の日本語の方は中学生の時に習って以来のままで、特に、動詞、形容詞、形容動詞の活用とか係り結びなど、かなりあやふやになっているのですよね。

このようなことでは若い女性の舌足らずの日本語に文句をつける資格はないだろうということで、書店に文法書を探しに行ったところ、外国語の文法書は並んでいるのですが、日本語の方は意外に適当なものが見当たりません。

仕方がないので入試参考書の棚に行き、「「高校入試の基礎づくり国語」というのを見つけ買って帰りましたが、流石に要領よくまとまっており、このところ中学生の気分に戻って、カ行変格活用「こ、き、くる、くれ、こい」、「づとずの違いは」などとやっております
(「孫に教えてもらった方が早いよ」)。

今思えば、われわれの時代、小学唱歌は、文語文法の宝庫でしたよね。
当時の子どもたちは、これらを口ずさむことによって、知らず知らずに日本語の美しさを身につけていったのではないでしょうか。

「桜井の別れ」 落合直文
”父上いかにのたまうも 見捨てまつりてわれひとり いかで帰らん帰られん この正行は年こそは いまだ若けれもろともに おん伴仕へん死出の旅”。
こういう歌を小学生が歌っていたんですものね(今はAKB48でありますが)。

もっとも小学生ですから、言葉の意味を取り違って分かったような気になっていたこともよくあったような気がします。

歌人の藤井常世さん、いや藤井先生の著書にも、「仰げば尊し」の「今こそわかれめ 
いざさらば」を、子供の頃、「今こそ分かれ目」と思い込んで歌っていたとありますが
( Me too! )、この「め」は、名詞ではなくて上の強調の「こそ」からかかってくる係り結びなのですよね。

藤井常世先生の「短歌の文法」は、文法というより、短歌に使われている言葉を通じて、日本語の美しさを伝えてくれる名著だとおもうのですが、言葉を大事にするということの人の営みにおける重要性を改めて感じさせられるとともに、言葉に対する感性を持つ歌よみという人々の集団が日本語を守る重要な役割を担っているように思いました。

○ところで、ステーキに山葵という組み合わせがありますが、今回、バターを乗せたステーキに、やもめの気まぐれで前菜(?)の冷ややっこで余った鰹節をふりかけてみましたら、これがまた非常に合うのですね。

海と陸のコラボレーションですな。

老生が食する安い肉ほど、うまみが増す気がいたします。
皆さまが食される上等なものでも一度お試しになる価値があるのではと。
(「ステーキを肉じゃがにするということ?」)

2011年8月30日 (火)

8月ー2

8月後半の瓏山です。

○民主党の代表選挙ということで、政治家の自筆のフリップをTVの画面で見る機会が増えました。
いつも思うのですが、一国の総理になろうという方々の字、もうすこし何とかならないものなのでしょうかね。
小学生のような金釘流の字を、臆することなく堂々と人前にさらす神経もどうかと思います。

思えば、4半世紀前、当時の小渕幹事長が「平成」と書かれた色紙を掲げて、新しい年号を発表した時あたりから、政治家の字のいいかげんさが際立ってきたように思われます。

琴棋書画は士大夫たるものの嗜みであったはずなのですが、今や、字の巧拙などはどうでもいいんだよ、要は中身だよということなのでしょうか。
それにしては肝心の中身も・・・。

などと言いながら、かく言う私奴も、情けないことに、たまに自筆の手紙を書くときなど、字が汚くなってきているばかりか、すらすらと漢字が書けなくなり、老眼鏡をかけながら辞書をひく回数が増えてきたことに否応なく気づかされるこのごろです。

基礎的な教養をデジタル化による便利さに売り渡しているといったところでしょうか
(「売れるほどの教養、あったのかな」)。

○老生にとって主要な年間行事のひとつ、一門の発表会、今年は、文化会館の舞台で、「白雲の城」を演りました。
「夢まぼろしの人の世は 流れる雲か城の跡」、老人にふさわしい演目でございますな。

何時ものことながら、老人とはいえ男一人、楽屋で女性軍と一緒になって着替えたり準備をするというのは、都の迷惑防止条例に違反しているのではないかという怖れもあり、かなりの精神的強靭さを要求されます。

あちらが当方を男と思っていないということであれば、これはこれでまた屈辱的なことでもありますし。

女性が、舞台での踊りという目的だけでなく、化粧や着付けという、男にとってはどうでもいいような煩雑極まりないプロセスをもしっかり楽しんでいるということを、いつもながら感じさせらる時でもあります。

肝心の踊り自体は、自己採点でまずまずというところ、昨年、一昨年に比べれば、我ながら、ややめりはりがつきかけてきたかなといったところでしょうか。
向上の一路頂点なし。20年後の国立劇場の舞台を目指して精進しなければ。

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それにしても後頭部にだけ照明が当たらない方法はないでしょうかね。

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