10月前半の瓏山です。
先月30日に陋屋をよろばい出まして、ミュンヘン、フィレンツエ、ローマを廻り、10日に帰ってきたのですが、流石に寄る年波には勝てずといったところでしょうか、ビールとワインの二日酔いでこの2,3日、ぐったりとしておりました。
自由な行動を束縛されるのがいやなので、今回も、ホテル、交通機関すべて自分で手配しての独り歩きだったのですが、老人度日増しに加わり、緊張感を常に保持する事が難しくなってきていることを考えると、そろそろこのやりかたにも白旗を掲げる時期になったかなとも思わされた今回の旅でもございました(11日間というのも矢張り一寸長かったような)。
それにしても、異なる文化を持つ国々で、直接かの国の人々と触れ合うというのは、何時も、萎びた老人の頭に新鮮な刺激を与えてくれます。
国外に出た途端、国内では特に気にする事もない、あるいは却って邪魔になる、アイコンタクト、身振り手振り、表情、言葉の全てが旅を続けるために重要になるのですよね。
そのうえで、冷たくされても言葉が通じないんだと思えば落ち込まずに済み、温かく扱われれば率直に嬉しいという感情を素直に表明できるということで、引っ込み思案の1人子としては、ある意味性格改善の機会にもなるのでございます(「もう遅いよ」)。
今回の旅でもいろいろな触れ合いがありましたが、これまでと違っていたのは、私が日本人と分かると誰もが異口同音に、3.11の東北大地震と「ツナミ」を話題にしたことでした(ちなみに「ツナミ」は英語だけでなく、エスペラント語のようにいまや万国共通語になっております)。
ミュンヘンの喧騒を極めるオクトーバービアフェストのテントの中ぎゅうぎゅう詰めの長椅子で隣り合わせになりお互いに1Lジョッキの乾杯を繰り返した地元のカップル、
フィレンツエの混み合ったトラットリーアで隣同士のテーブルになったフランス・オルレアンから来たおばあさんとデュッセルドルフに住むというその姪御さん(双方ともかっては相当の美人であったろうおしゃれなうば桜)、
フィレンツエからローマに向かうAVで乗り合わせたスペインとアメリカから来たローマ大学留学の男女学生、
ローマのホテルのロビーで知り合ったアラバマのロータリアンの一家などなど。
その後放射能がどうなっているかということもあったと思いますが、まずは「お前は大丈夫だったのか」、「おまえの国も大変だったけど頑張ってるな」という思いやりの言葉と、「私たちも募金したよ」というのが多かったのには心温まる思いがしました。
勿論、不肖瓏山も及ばずながらわが日本国を代表いたしまして感謝の言葉を述べるとともに、放射能騒ぎも落ち着きつつあるので、欧州もいいけれど美しい私の国にも是非遊びに来るよう観光局長官に代わり要請したところでございます。
アジア系老人欧州独り歩き雑感
○ミュンヘン
なんと言っても今回の目玉はオクトーバービアフェスト。1年に1回、ドイツ国内は勿論ヨーロッパなどから600万人が集まり、600万Lを超えるビールが飲みつくされるというバイエルン地方最大のお祭りです。
今年は、9月17日から10月3日まで例年の如くミュンヘンのテレージェン・ヴィーゼ公園で開催されておりました。
私が訪れたのは丁度その最終段階だったので、ダウンタウンから会場に向かう道は終日人で溢れ、行きかう若者たちが声をかけあうなど街の盛り上がりも最高潮でした。
会場の公園にはテントと呼ばれる1000人近くも収容できる仮設のレストラン(許された地元のビール会社だけが設営できる)が広い道の両側に14,5軒ほども立ち並んでいます。
思い思いのバイエルン、チロルの民族衣装に身を飾った男女、子ども連れの夫婦が陽気に行き交っています。
その中を目が細く鼻が丸く脚の短い東洋人が、近くに不審な人間はいないかなどと財布の所在を確かめつつ、きょろきょろと周囲を見回しながら一人歩いているのです。
どのテントも満員で、老若男女それぞれ1L入りのジョッキを呷りながら、肩を組んで歌うものあり、それに合わせて椅子の上に立ちあがって踊るものありの賑やかさ。
ルフトハンザのアテンダントに教えてもらった一番人気のテントには1日目にはついに潜り込めませんでした(翌朝10時の開園に合わせてしつこく再度挑戦、ようやく初志を貫徹し朝から1Lジョッキを3杯お代わりして喝采を受けました)。
ドイツ人は綺麗好きと言われますが、会場内や周囲の道路は、ソーセージを包んでいた紙などが散乱しています。市内のマリエン広場の噴水の周囲なども結構ごみが散らかっていました。
もっとも、早朝街のいたるところに撒水車が出て強力に放水してすっかり綺麗にしてしまうところがドイツ人のドイツ人たるところでしょうか。
ドイツの他の都市もそうであるように、ミュンヘンの街も第2次大戦の連合軍による空爆で8割方破壊されたということですが、いまやその痕跡もとどめず、歴史を思わせる石造りの町並みが再建され整然と続いているのには流石と思わされました。
○フィレンツエ
後でややがさつなローマに行ってみて、フィレンツエこそがイタリアの粋を感じさせてくれるところだと思いました(と大きなことをいってもあとはミラノしか知らないのですが)。
美術館、博物館はもちろんながら、教会も建物も店も街路も(飲み屋も)ルネッサンスの雰囲気を感じさせてくれます。
ミュンヘンでは見かけなかった乞食もいました。ユーロ圏内の格差の表れでしょうか。
ドウオーモのサンタマリアデルフィオーレ教会、サンタマリアノベッラ教会の入り口にも門番のように乞食がいまして、これが通り雨がくるとさっさと合羽(結構粋な色合いの)を被っていたのがおかしかったですね。
スペインのサンチャゴデコンポステーラ大聖堂の入口の乞食は交代制で非番の乞食が脇で昼飯など喰っておりましたが、あちらの乞食は人を喰ったところもあるようでございます。
酒が安いのは感動的ですらあります。1人なので高級レストランには行かず(フルコースは食べきれずまた懐のせいもあり)、ホテルのコンシェルジェに勧めてもらったトラットリアに毎晩場所を変えて出向いていたのですが、そこそこのワインを開けても、支出はまず日本の3.4割程度、しかもこれが本場のトスカナワインなのですから堪えられません。
われわれ日本の酒飲みは酒税当局に虐待されております。
一人旅につきもののハプニングというか失敗は今回もいろいろありましたが、フィレンツエからローマに向かう特急列車AVには、あやうく乗り損なうところでした。
駅の発券窓口が混雑するので、用心のため、あらかじめ旅行代理店でローマ行きの指定券を買い、早めにサンタマリアノヴェッラ中央駅に出向いて、電光掲示板の発着案内に目を凝らしていたのですが、発車時間も迫ってくるのにベネチアから廻ってくる私の乗る列車の表示が一向に出てきません。
これがかねて聞き及んでいたイタリアのいい加減さではなかろうかなどと思いながらもさすがに焦り始め、スーツケースを引き摺って駅構内をうろうろした揚句、漸く列車はローマが終点でなくローマ経由サレルノ行きなんだということに気が着き無事乗りこむことができました(なんのことはない、列車番号はきちんと表示されていたのに)。
イタリアの鉄道には、この後、テルミニ駅から空港までのレオナルドエクスプレスにも乗りましたが、いずれも発車時刻、到着時刻とも定刻でした(いい加減だなどと言ってごめんなさい)。
チケットにローマテルミニ行きとあり、映画の影響もあってすべて列車はローマが終着駅と早とちりしていたのも老人血圧上昇の一因でございました
(それにしてもジェニファジョーンズのような女性にめぐり合うロマンチックなローマは体験できなかったですな)。
駅では、「何番線にどこそこ行きの列車が到着します」とか「危ないですから黄色の線まで下がってください」とかのアナウンスなどはなく、発車のベルもありません。
列車はなんとなく入ってきてなんとなく出ていきます。
乗客は全くの自己責任で黙々と乗り降りしております。
それでも、なかに大きな荷物を持った年寄りなどがいると必ず誰かが近寄って手を貸しております。
そう言えば、TVの天気予報はドイツでもイタリーでも、地域の情報とともにヨーロッパ全域の状況を解説していますが、熱中症に注意とか、紫外線がどうだとか、やれ冷えるから重ね着をしろだとか、雨が降るから傘を持って出かけなさいとかいう子供にするような注意はしてくれないのですよね。
○ローマ
この街はどこを歩いても古代の遺跡、それも巨大な建造物がそこここにごろごろ転がっているような街ですね。
広い道路も中央部分を除き昔ながらの石畳が残されており、街中いたるところににある教会も、樹木に囲まれた日本の神社仏閣と異なり、石畳の前庭、石造りの回廊、伽藍でして、有機物を拒否する石の文化がそこにあるといった印象を受けました。
往時、エジプトから戦利品として持ち帰った大小のオベリスクも市内のあちこちに見ることができます。
バチカンのサンピエトロ広場にもローマ皇帝が移設したひときわ巨大なオベリスクが建っているのですが、聖堂の円形のクーポラ、聖堂内の楕円形の伽藍、広場を円形に取り巻く回廊に対し、鋭角に聳えるオベリスクがなにかそぐわない感じを受けたのは、老人の目に、カトリックが「略奪」を許容しているかのようにに見えたからでしょうか。

街中に結構スクーターが多いのは、「ローマの休日」を思い起こさせます。
地下鉄に乗ると、どこからか音が流れてくるので何かと思えば、車内でバイオリンを弾いている少年がおり、一区切りつくと紙コップを持って寄付をもらいに乗客の間を廻るのです。レッスン料の足しにでもするのでしょうか。アコーデオンのおじさんの時もあります。
改札口を出てスペイン広場などへ出る地下道にも、一応ちゃんとした身なりの夫婦が子供を抱いて紙コップを前にギターを演奏したりしています。これもイタリア的というのでしょうか。
サンピエトロ大聖堂に観光客として訪れた翌日、一応信徒のはしくれとしてご本山のミサに与ろうということで、夕方4時過ぎに再訪いたしましたところ、思いがけず、ベルトーネ枢機卿(枢機卿の中でも法王の次の最高位らしい)以下3人の枢機卿が司式するお二方の司教の叙階式に巡り合わせました。
儀式に参加した聖職者の数だけでも80人は超えるであろうという壮大なもので、あの大伽藍にパイプオルガンの壮麗な音色とグレゴリアン聖歌が響き渡り荘厳きわまりない儀式が2時間を超えて続きました。
主祭壇から遥か後方柵に隔てられたところからではありましたが一応まがりなりにも参列出来たのは、たまたまバチカンを訪れた老生としては望外のことでありました。
これも日頃の心がけが良かったからでしょうか。
これで、一昨年のサンチャゴデコンポステーラとあわせ2大聖地を訪れたことになります。
今後何時の日かエルサレムに行けることはあるでしょうか。
今回廻った各地では、交通機関や観光バスでの案内用語は、地元の言葉の他は、英語、スペイン語、フランス語で、中国語、日本語などは使用されていませんでしたし、観光地での入口、出口などの標識も外国語の表示があったとしても英語、スペイン語でした。
そのようななかで唯一、世界中の人が集まる天下のサンピエトロ大聖堂の標識に日本語を見つけたんですよね。
聖堂の出口の上には、イタリー語、英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語とともに、「出口」という漢字の表示があったのであります(感激のあまり手が震えています
)。
欧州のカトリック諸国は見習ってほしい。
でも、これは混迷停滞の中で文字通り「出口」を見失っている日本に、入口だけでなく出口の大切さを教えてくれているのかも。
○アルプス山脈
帰路、ローマ、レオナルドダヴィンチ(フイウミチーノ)空港を飛び立った飛行機は、スイスからオーストリアにかけて連なるアルプス山脈の上を横切って、ミュンヘン、フランツヨゼフシュトラウス空港に向かいます(日本の空港にも竜馬空港というのはあるにはあるんやけど
)。
どれがどの山かは分からねど、これがほんまもんのアルプスなんやなと思いながら、赤ゲットのアジア人は、どこまでも続く雪に覆われた峨峨たる山容に機上から目を凝らしておりました。
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